いちにのさんで来世へ飛ぼう

私がいなくなったら、と考えたことはある?

それはずっと、私があなたに聞きたかったことだった。

昨年から私は何度も何度も何度も、飽きるほど何度も考えてきた。パソコンの前で、ベッドの中で、お風呂の中で、車の運転席や助手席で、薄暗いキッチンで、珈琲を飲みながら、食事を摂りながら、痛む下腹部を押さえながら、神社で、交差点で、パン屋で、コンビニで、雨の中で、イヤフォンを片手に。何かを確かめるように考えて、私は少しずつ覚悟を決めた。

覚悟はできた。でも、あなたがいなくなったら、という問いへの答えは「わからない。でも今のところ、あなたがいない世界なんて意味がない」だ。今でもずっと変わらない。

「わからない」と答えたあなたは「でもこれだけは約束してほしい」と言った。手足があり、見渡せる目があり、素敵な声を出せるのだから、俺が見れなかった景色を見て最後にお花畑で教えてほしいと。

子どものように無邪気に約束できたらよかった、とちょっと悔しい気もするけれど、これに関してだけは絶対に約束できないし、したくない。いつかできる日が来るかもしれないけれど、今は。

遺された側をこの世に引き留める言葉を挙げるとすれば、「五体満足なんだから」「死んだ人はそれを望んでいない」「時間が解決してくれる」、このあたりだと思う。理解はできるし、おそらく本当に“そう”だ。

一方で私は、「だから何?」とも思ってしまう。五体満足だから、相手は望んでいないから、時間が解決してくれるからなんだって言うのか? 何よりも誰よりも大切な人を失う=全てを失うことと同義なのに、この手足を使い倒して支えたい人が、この目で同じ景色を見たい人が、この声で愛を伝えたい人が世界のどこにもいないのに、何が“在る”と言うのか?……と自分自身で自分を救うこともできずに視野が極端に狭くなってしまうことは、目に見えている。

ちなみに私は、「自分が死んでもあなたには頑張って生きてほしい」とは言えない。たとえば、あなたの痛みや悲しみを死んだ私が来世で肩代わりできるなら言うだろうけれど、身を裂かれる苦しみを肩代わりできるわけでも、必要なときに寄り添って抱きしめられるわけでもないのに、なんのケアもなしで「生きて」とは言いたくない。私の死を乗り越えたあなたは、もっと美しく素晴らしい人になっていくのだろう。でも乗り越えられなくっても、責めたりはしない。同じ場所で眠ることはできないだろうけれど、「よくがんばったね」と抱きしめには行けるかも。

くだらないことをあれこれ書いた上に「生きる」という約束はやっぱりできそうもないけれど、2021年末に(私が勝手に)約束した「最期まであなたをひとりにはしない」だけは守り抜こうと思っているよ。その後のことは、その後考えればいいよね。

それまでに、いちにのさんで一緒に来世へ飛べる四次元アイテムができないかなぁ。