きっとうまくいくよ

 

ぱちぱち、と弾ける光で目が醒めた、気がした。あれはいつだっただろう。私がまだ真夜中を漂っていたころだ。どこの誰かもわからないのに「この人と付き合う」という直感と、遠い距離から突然発せられたやさしい光を未だに憶えている。

 

あなたはうつくしい。使う言葉が、姿勢が。そしてその言葉やコミュニケーションには過不足がない。言葉を交わし合っていて、あまりの心地よさにためいきが出ることすらある。

ただ、私をさらに引き込んだのは言葉や姿勢というよりも、その裏で小さく揺れる寂しさだったように思う。

面白おかしく色んな話をしてくれたけれどいつもひとりで立っていて、なぜだか少し寂しそうで(私の思い違いだったのかもしれない)、日を追うごとに「あなたが今日もよく眠れるといいな」「体に鞭を打ちすぎないで、おいしいものを食べて休んでほしい、幸せでいてほしい」と祈るようになった。

 

しかし残念ながら、祈りは相手を物理的に守る盾にはならない。この夏の終わり、遠い土地でひとり耐えているあなたを想いながら、自分と何度も話をした。

自分も含め人間を支えるには気力も体力も要るから、悲しみに暮れる日ほどきちんと食べなさい。自分を大切にすることは、自分を大切に思ってくれる人を大切にすることでもある。

祈りだけでは人の力にはなれないから、この体や手を使える日が来るまで今できることを考えなさい。絶望するのは、考え得る打ち手をやりきってからでも遅くはない。

もしものことがあっても、私には私がいるから安心して頑張りなさい。痛みも悲しみも必ずいつか誰かを支えるときの燃料となる。

それらは遠い過去で母や祖母から、そしてあなたから教わったことだ。母や祖母やあなたに生かされて、今の私がある。

 

私たちはお互いに相手を「光」だと言うけれど、相手が光っているように見えるだけで、実は自分自身が光っている場合もあるんだろう。

自分が相手を照らしているから、相手が光っているように見える。お互いが相手を照らす太陽であり、照らされて輝く月でもある。

相手に照らされて欠けたり満ちたりしながら、自分のかたちを知る。あなたという光に照らされ続けた私はもう、生きることを諦めていたころの透明人間ではなくなった。

 

実際に会って目を見て話をして、同じものを食べて肌を重ねて、ひとつ景色を見るうちに私たちは、きっと傷つけ合ったりもする。波長が合わないと感じることもあるかもしれない。

まったく違う環境で生まれ育ち、すでに確固とした信念や価値観がお互いにあるのだし、光があれば影になる部分も出てくるのだから当然だ。

 

仮にもし別々に生きる道を選ぶことになっても、私はあなたの輪郭を確かめるように何度でも思い出す。

うつくしい花々や頭上で輝く星を見るたびに、季節がめぐるたびに、どこかで同じ時代を生きるあなたが幸せであってほしいと祈る。眠れない夜にあたたかいミルクを淹れてあげられないから、その頬を撫でる風がいつだってやわらかくあってほしいと祈る。

私の体や手を使っても盾にはなれなかったし、祈り自体だってやっぱり盾にはならない、そうわかってもきっと祈らずにはいられない。

 

とはいえ、とはいえだ。

私たちには言葉がある。相手を理解したいという気持ちもある。何か問題があるなら一緒に解決したいとも思う。なにより、(あなたはどうかわからないけれど)私はふたりの「違い」を楽しめる、つまり物事の良い面を探せるタイプだ。

影となるなら照らせばいいし、新たに影ができたらまた照らせばいい。新月の日はそれぞれがひとりの時間を楽しめるような工夫をすればいい。

そうやって照らし合ってお互いを知っていけば、やっぱりほとんど問題にはならないと思う。

 

愛が決意であり、決断であり、約束であり、意志ならば。大切なものをわかっていて、時に迷い立ち止まっても愛を選び続けられるならば。たぶん私たちは、ぶつかりながらもきっとうまくやっていける。

「波長が合う合わない問題」は解決策がないから仕方ない…と言いたいところだけど、現時点で解決策が見当たらないだけで、実はあるのかもしれないし、作り出せるのかもしれない!

 

出会えば必ず別れが来る、という圧倒的な事実はどうしたって変わらなくて、考えていると少し悲しくなるね。この先同じような話をして悲しくなったら「先読みのしすぎだ」って笑って、ふたりでひとまずおいしいものを食べよう。