やっと失えた

 

28歳のお誕生日おめでとう。ここまで生きてきてくれてありがとう。お母様もお父様もご先祖様も、みんなにありがとう。

 

 

問題はここから先。いったい何を、どのくらい伝えよう。去年はあんなにもサクサク書いて恥ずかしげもなく共有していたけれど、今年はそうもいかない。

それはたぶん、去年の何倍も何十倍も愛してしまっているから。愛にはいろんな色やかたちがあって、言葉では表しきれないそれをこの一年で育んでこれたから。

だから書いては消して書いては消してを繰り返し結局当日には間に合わず(言い訳じゃん!と笑ってくれ)、10/1の4:30過ぎにやっと、キッチンの隅に腰を据えて書いてみることにしました。

きっとまた長くなるだろうけど、小説やドラマによくある、あなたの人生のアナザーストーリーを楽しんでいただけたら嬉しいです。

 

 

去年の誕生日からもう一年が経ったなんて。あっという間だった。

と書きたいところなのだけど、この一年決して「時の流れは早い」と感じられなかった私は今、「やっと一年経ったのか」とすら思います。あなたの一年はどうでしたか。

この感覚、子どもの頃に感じたそれと似ています。当時はどこもかしこも新しさで満ちていて、だから時の経過が遅かった。

記憶している限りでは、この一年が一番長い。「長い夢を見ていた」とは正直言えないけれど、たくさんのことを経験できて、たくさんの愛を知って、夢もひとつ叶いました。

 

昨日あなたが言ってくれた、「初めて話したときよりも元気そう」という言葉を何度も思い出しています。

あなたがそう感じるように、私自身も"そう"だと感じてる。元気というより、「吹っ切れた」が近いのかな。

 

去年の今頃はあなたが感染病と入院を乗り越えて、病気かもしれないことをひとりで抱えてた(これはもう少しあとかも)。

誕生日にはプレゼントをくれて、年末におばあちゃんちで少し話したときには、「あなたを最期までひとりにしない」と自分に誓った。

バレンタインには電話したよね。私が「お菓子作るんだ〜」と言ったら、あなたも「俺も作る」って言ってた。お菓子じゃなくて、ビーフシチューか何かだった気がする…と思ってLINE読み返したらこれ今年じゃなくて去年だった。

春にはあなたの花粉症が辛そうで、夏からはちょっと距離があったような気がする。なんと2週間話さないというイベントも発生した(!)

この間に病気になったり、仕事を辞めて貯金が尽きたり、家族問題や自分の弱さに向き合うのも嫌になったり、声を上げても誰も助けてくれなかったり、こんな人生もう要らないと正直思うこともあったけど。

そんなときこそ食べるんだって言い聞かせて自炊したらすごく美味しくて、人の優しさが身に沁みて、私の心の中にはいつだってあなたがいた。だから耐えられた。

 

物語がクライマックスを迎えるにはどのシーンも欠かせないように、ひとつひとつがあったおかげで今がある。

その"今"の状況が第三者から見てどんなに不幸でも、私は幸せ。何があっても私を、あなたを、この人生を愛すると決めたから。

本当に大切なもの以外を失えたから、また最初からはじめられる。やっとこの10年に終止符を打てる。

もう今までの私でいる必要はないし、どう思われるかより自分がどうしたいかを大事にしていいし、どこにいて何をして誰と生きたっていい。

そんな考えが体に染み渡って、声となって出たのだと思う。

 

「あなたがいれば何もいらない」という状況は味わいすぎるほどに味わったけれど(あなた以外のものをほぼ失ったという意味で笑)、これからもあなたが隣にいてくれたら、もっともっと幸せ。

あなたの一年には何があって、何を感じたんだろう。私に面白おかしく話してくれる以外にも、悲しいことや苦しいことがたくさんあったんだろうな。長い時間がかかっても、いつか癒えますように。

そんなあなたをこれから私が、たくさん笑わせられますように。さよならを言われることを、もう怖がらなくてもいいように。

 

あなたといると、あなたの中に私を見つける。私の中にも、あなたを見つけられる。

凹凸はぴったりと合うけれど色は違っていて、だから完璧ではないのだけどそれが心地よくて、ずっとこのままでいられたらと思う。

これからたぶん私たちは、第三者から見て間違えたりもする。

でもあなたが出した答えなら、それが何であっても私は正解だと信じてる。私が出した答えなら、あなたもきっとそう信じてくれるだろうと、信じてる。

意外と弱くて脆い自分たちの足りない部分を補い合えて、自分の弱さが痛くてもきちんと話し合うことができれば、私たちに怖いものなんてないよ。

 

一年前に描いた理想とは違う未来だった。でもそれが最善で、最高だったと今は思う。

これからどんな「理想とは違う最高な未来」が待っているんだろう。それを一緒に体験するのは、世界でたったひとり、あなたがいい。

 

 

いちにのさんで来世へ飛ぼう

私がいなくなったら、と考えたことはある?

それはずっと、私があなたに聞きたかったことだった。

昨年から私は何度も何度も何度も、飽きるほど何度も考えてきた。パソコンの前で、ベッドの中で、お風呂の中で、車の運転席や助手席で、薄暗いキッチンで、珈琲を飲みながら、食事を摂りながら、痛む下腹部を押さえながら、神社で、交差点で、パン屋で、コンビニで、雨の中で、イヤフォンを片手に。何かを確かめるように考えて、私は少しずつ覚悟を決めた。

覚悟はできた。でも、あなたがいなくなったら、という問いへの答えは「わからない。でも今のところ、あなたがいない世界なんて意味がない」だ。今でもずっと変わらない。

「わからない」と答えたあなたは「でもこれだけは約束してほしい」と言った。手足があり、見渡せる目があり、素敵な声を出せるのだから、俺が見れなかった景色を見て最後にお花畑で教えてほしいと。

子どものように無邪気に約束できたらよかった、とちょっと悔しい気もするけれど、これに関してだけは絶対に約束できないし、したくない。いつかできる日が来るかもしれないけれど、今は。

遺された側をこの世に引き留める言葉を挙げるとすれば、「五体満足なんだから」「死んだ人はそれを望んでいない」「時間が解決してくれる」、このあたりだと思う。理解はできるし、おそらく本当に“そう”だ。

一方で私は、「だから何?」とも思ってしまう。五体満足だから、相手は望んでいないから、時間が解決してくれるからなんだって言うのか? 何よりも誰よりも大切な人を失う=全てを失うことと同義なのに、この手足を使い倒して支えたい人が、この目で同じ景色を見たい人が、この声で愛を伝えたい人が世界のどこにもいないのに、何が“在る”と言うのか?……と自分自身で自分を救うこともできずに視野が極端に狭くなってしまうことは、目に見えている。

ちなみに私は、「自分が死んでもあなたには頑張って生きてほしい」とは言えない。たとえば、あなたの痛みや悲しみを死んだ私が来世で肩代わりできるなら言うだろうけれど、身を裂かれる苦しみを肩代わりできるわけでも、必要なときに寄り添って抱きしめられるわけでもないのに、なんのケアもなしで「生きて」とは言いたくない。私の死を乗り越えたあなたは、もっと美しく素晴らしい人になっていくのだろう。でも乗り越えられなくっても、責めたりはしない。同じ場所で眠ることはできないだろうけれど、「よくがんばったね」と抱きしめには行けるかも。

くだらないことをあれこれ書いた上に「生きる」という約束はやっぱりできそうもないけれど、2021年末に(私が勝手に)約束した「最期まであなたをひとりにはしない」だけは守り抜こうと思っているよ。その後のことは、その後考えればいいよね。

それまでに、いちにのさんで一緒に来世へ飛べる四次元アイテムができないかなぁ。

3月9日

たまにはぽちぽち、ここに書いてみようと思う。わたしたちが辿った軌跡のようなものを。読まれることはきっとないだろうけれど、それでいい。

最近の出来事や、今日のこと。

年末に送った手紙をあなたがおそらくまだ読んでいないことに、ひと息つく日々です。なんというかわたしは、愛が重すぎる。

重いとはどういうことかを端的に伝えるなら、「罪を共有したい」。それも、あなたも含め誰にも知られずに。一緒に償いたい、とは違う。共有したい。願わくはわたしがすべてを引き受けたい、あなたに知られずに。そしてあなたはどこか遠くへ、誰にも邪魔されず行きたい世界へ行ってほしい。何にも汚れぬまま、一点の曇りもない人生を送ってほしい。

これらはあくまでも比喩であって、あなたが罪を犯すと思っているわけではないよ。じゃあ愛とは何なのか、という話はまた別の機会にするとして、今はただそういうレベルで、愛してしまっています。最愛の人のためなら、言葉どおり「なんだって」できてしまうタイプの人間だったようです。(相手のため、って言葉好きじゃないんだけどね。どこまでいってもすべてはきっと自分のためだもの)

だから、その重さの一片が零れ落ちたあの手紙を読まれることが若干怖い。今思い出してもウゲェという顔になる。なんといっても文字量と密度が狂気すぎる!

ああでも自己卑下しているわけではなくて、これで嫌われてもまあ仕方がないし、むしろこの重さ自体は好きだったりもして…ただ一方的にエゴの塊を押し付けて申し訳ないのです。

いつかあなたの手に渡るのか渡らないのか、渡って読み終えたらどんな気持ちになるのか、ちょっと書きすぎているうちに楽しみになってきました。やっぱり人が求めているのって"体験"よね。

 

 

そういえば今日のあなたはいつにも増して(増してと言ってもほんの僅かに)寂しそうでした。

人間だから何かがなくても寂しくなったり、疲れていて声が落ち込んでいるときのトーンに寄ったりします。しかも明日18日は蟹座満月なので、前後3日くらいあなたとわたしは普段よりもセンシティブになりやすいです。と、頭で理解していながらもつい強く聞いてしまいました。トホホ…反省。

なにもないならいいんです、と言ったけれど、なにかあったっていいんです。あなたがひとりきりで抱えて泣くことがないのなら。そういう姿を見せるのは得意ではないでしょうけれど。

「自分は感情的になることが好きではない」とずっと思ってきたけれど、ちょっと違いました。感情的になっている自分を客観視するのはたしかに嫌だけれど、ぶつかったり、弱い自分を見せることのほうがよほど恐ろしい。

でもあなたと出会って、どんな瞬間もどんなあなたもどんな自分も、心底愛おしくて仕方ない。それに実はぶつかりあったり弱い部分を見せた日々こそが宝物になる、ということにも気づきました。

わたしが電話越しに泣いた夜も、あなたが電話越しに泣いた夜も、ぶつかり合った日も、おそらくすれ違っていたであろうときも、ぜんぶが宝物です。

もしわたしが明日死ぬとして間際に思い出すのはきっと、あなたとともに泣いた日々の煌めきと、「あなたが安心して泣ける場所ができますように」という願い。

 

死は誰にでも訪れるもので、それが明日である確率は常に誰もが同じだから、覚悟をしつつも根拠なく途方もなく信じ続けて、できるかぎり永くあなたを隣で笑わせられたらいいなと思います。

ちなみに何度も言うようだけどわたしはめちゃくちゃに運が良い上に罪の共有をしたがるような女だから、あなたを残して死ぬようなことはしないよ。

 

それにしても、筆を執るとすぐ死についての話になってしまうんだよなあ。こればかりは…ゆるしてね。(タイトルが3月9日なのは、昨日これを聴きながら号泣してしまい、それについて書きたかったからです)

きっとうまくいくよ

 

ぱちぱち、と弾ける光で目が醒めた、気がした。あれはいつだっただろう。私がまだ真夜中を漂っていたころだ。どこの誰かもわからないのに「この人と付き合う」という直感と、遠い距離から突然発せられたやさしい光を未だに憶えている。

 

あなたはうつくしい。使う言葉が、姿勢が。そしてその言葉やコミュニケーションには過不足がない。言葉を交わし合っていて、あまりの心地よさにためいきが出ることすらある。

ただ、私をさらに引き込んだのは言葉や姿勢というよりも、その裏で小さく揺れる寂しさだったように思う。

面白おかしく色んな話をしてくれたけれどいつもひとりで立っていて、なぜだか少し寂しそうで(私の思い違いだったのかもしれない)、日を追うごとに「あなたが今日もよく眠れるといいな」「体に鞭を打ちすぎないで、おいしいものを食べて休んでほしい、幸せでいてほしい」と祈るようになった。

 

しかし残念ながら、祈りは相手を物理的に守る盾にはならない。この夏の終わり、遠い土地でひとり耐えているあなたを想いながら、自分と何度も話をした。

自分も含め人間を支えるには気力も体力も要るから、悲しみに暮れる日ほどきちんと食べなさい。自分を大切にすることは、自分を大切に思ってくれる人を大切にすることでもある。

祈りだけでは人の力にはなれないから、この体や手を使える日が来るまで今できることを考えなさい。絶望するのは、考え得る打ち手をやりきってからでも遅くはない。

もしものことがあっても、私には私がいるから安心して頑張りなさい。痛みも悲しみも必ずいつか誰かを支えるときの燃料となる。

それらは遠い過去で母や祖母から、そしてあなたから教わったことだ。母や祖母やあなたに生かされて、今の私がある。

 

私たちはお互いに相手を「光」だと言うけれど、相手が光っているように見えるだけで、実は自分自身が光っている場合もあるんだろう。

自分が相手を照らしているから、相手が光っているように見える。お互いが相手を照らす太陽であり、照らされて輝く月でもある。

相手に照らされて欠けたり満ちたりしながら、自分のかたちを知る。あなたという光に照らされ続けた私はもう、生きることを諦めていたころの透明人間ではなくなった。

 

実際に会って目を見て話をして、同じものを食べて肌を重ねて、ひとつ景色を見るうちに私たちは、きっと傷つけ合ったりもする。波長が合わないと感じることもあるかもしれない。

まったく違う環境で生まれ育ち、すでに確固とした信念や価値観がお互いにあるのだし、光があれば影になる部分も出てくるのだから当然だ。

 

仮にもし別々に生きる道を選ぶことになっても、私はあなたの輪郭を確かめるように何度でも思い出す。

うつくしい花々や頭上で輝く星を見るたびに、季節がめぐるたびに、どこかで同じ時代を生きるあなたが幸せであってほしいと祈る。眠れない夜にあたたかいミルクを淹れてあげられないから、その頬を撫でる風がいつだってやわらかくあってほしいと祈る。

私の体や手を使っても盾にはなれなかったし、祈り自体だってやっぱり盾にはならない、そうわかってもきっと祈らずにはいられない。

 

とはいえ、とはいえだ。

私たちには言葉がある。相手を理解したいという気持ちもある。何か問題があるなら一緒に解決したいとも思う。なにより、(あなたはどうかわからないけれど)私はふたりの「違い」を楽しめる、つまり物事の良い面を探せるタイプだ。

影となるなら照らせばいいし、新たに影ができたらまた照らせばいい。新月の日はそれぞれがひとりの時間を楽しめるような工夫をすればいい。

そうやって照らし合ってお互いを知っていけば、やっぱりほとんど問題にはならないと思う。

 

愛が決意であり、決断であり、約束であり、意志ならば。大切なものをわかっていて、時に迷い立ち止まっても愛を選び続けられるならば。たぶん私たちは、ぶつかりながらもきっとうまくやっていける。

「波長が合う合わない問題」は解決策がないから仕方ない…と言いたいところだけど、現時点で解決策が見当たらないだけで、実はあるのかもしれないし、作り出せるのかもしれない!

 

出会えば必ず別れが来る、という圧倒的な事実はどうしたって変わらなくて、考えていると少し悲しくなるね。この先同じような話をして悲しくなったら「先読みのしすぎだ」って笑って、ふたりでひとまずおいしいものを食べよう。