3月9日

たまにはぽちぽち、ここに書いてみようと思う。わたしたちが辿った軌跡のようなものを。読まれることはきっとないだろうけれど、それでいい。

最近の出来事や、今日のこと。

年末に送った手紙をあなたがおそらくまだ読んでいないことに、ひと息つく日々です。なんというかわたしは、愛が重すぎる。

重いとはどういうことかを端的に伝えるなら、「罪を共有したい」。それも、あなたも含め誰にも知られずに。一緒に償いたい、とは違う。共有したい。願わくはわたしがすべてを引き受けたい、あなたに知られずに。そしてあなたはどこか遠くへ、誰にも邪魔されず行きたい世界へ行ってほしい。何にも汚れぬまま、一点の曇りもない人生を送ってほしい。

これらはあくまでも比喩であって、あなたが罪を犯すと思っているわけではないよ。じゃあ愛とは何なのか、という話はまた別の機会にするとして、今はただそういうレベルで、愛してしまっています。最愛の人のためなら、言葉どおり「なんだって」できてしまうタイプの人間だったようです。(相手のため、って言葉好きじゃないんだけどね。どこまでいってもすべてはきっと自分のためだもの)

だから、その重さの一片が零れ落ちたあの手紙を読まれることが若干怖い。今思い出してもウゲェという顔になる。なんといっても文字量と密度が狂気すぎる!

ああでも自己卑下しているわけではなくて、これで嫌われてもまあ仕方がないし、むしろこの重さ自体は好きだったりもして…ただ一方的にエゴの塊を押し付けて申し訳ないのです。

いつかあなたの手に渡るのか渡らないのか、渡って読み終えたらどんな気持ちになるのか、ちょっと書きすぎているうちに楽しみになってきました。やっぱり人が求めているのって"体験"よね。

 

 

そういえば今日のあなたはいつにも増して(増してと言ってもほんの僅かに)寂しそうでした。

人間だから何かがなくても寂しくなったり、疲れていて声が落ち込んでいるときのトーンに寄ったりします。しかも明日18日は蟹座満月なので、前後3日くらいあなたとわたしは普段よりもセンシティブになりやすいです。と、頭で理解していながらもつい強く聞いてしまいました。トホホ…反省。

なにもないならいいんです、と言ったけれど、なにかあったっていいんです。あなたがひとりきりで抱えて泣くことがないのなら。そういう姿を見せるのは得意ではないでしょうけれど。

「自分は感情的になることが好きではない」とずっと思ってきたけれど、ちょっと違いました。感情的になっている自分を客観視するのはたしかに嫌だけれど、ぶつかったり、弱い自分を見せることのほうがよほど恐ろしい。

でもあなたと出会って、どんな瞬間もどんなあなたもどんな自分も、心底愛おしくて仕方ない。それに実はぶつかりあったり弱い部分を見せた日々こそが宝物になる、ということにも気づきました。

わたしが電話越しに泣いた夜も、あなたが電話越しに泣いた夜も、ぶつかり合った日も、おそらくすれ違っていたであろうときも、ぜんぶが宝物です。

もしわたしが明日死ぬとして間際に思い出すのはきっと、あなたとともに泣いた日々の煌めきと、「あなたが安心して泣ける場所ができますように」という願い。

 

死は誰にでも訪れるもので、それが明日である確率は常に誰もが同じだから、覚悟をしつつも根拠なく途方もなく信じ続けて、できるかぎり永くあなたを隣で笑わせられたらいいなと思います。

ちなみに何度も言うようだけどわたしはめちゃくちゃに運が良い上に罪の共有をしたがるような女だから、あなたを残して死ぬようなことはしないよ。

 

それにしても、筆を執るとすぐ死についての話になってしまうんだよなあ。こればかりは…ゆるしてね。(タイトルが3月9日なのは、昨日これを聴きながら号泣してしまい、それについて書きたかったからです)